2年を経て

アメリカJ研究所での共同研究合宿も5週目に入り、全体の工程の2/3が終了。残すところ2週間を切った。ふたつのチームのうち僕が所属しない方のチームは今日をもって解散し、僕の所属するチームだけが最後まで残された形だ。この取り組みに対して外部から参加した身としては様々思うところがあるものの、良い経験をさせてもらっているということには疑いがなく、こういった機会を与えられたことに感謝している。そして、僕の関わっているプロジェクトでは少しずつ面白くなりそうな結果が出始めていて、2週間後にこの枠組みがひとまず終了しても、プロジェクトは継続する価値があるのではないかと思う。

せっかくアメリカまで来ているということで、先週末は2年ぶりにニューヨークを訪ねた。僕が博士学生として二十台の半分以上を過ごしたニューヨーク。コロナ禍もニューヨーク滞在中に経験した。色んな思い出がある。そんなこともあり久しぶりにマンハッタンを歩いていると、なんだか感傷的な気持ちになった。道を歩けば人の尿・マリファナ・カートフードの匂いと様々な(不快な)匂いが漂ってくるが、それすらも懐かしい。今では信じられないが、僕はあるまとまった時間、あの街の一部だったのだ。ニューヨークでは友人や僕が博士課程を過ごしたラボを訪ね、多くの2年ぶりの再会があった。この2年のうちには、隣のラボで良くしてくれたポスドクが医療事故で亡くなってしまったり、同僚だった先輩に子供が産まれたりと、それぞれがそれぞれの人生の岐路を経験したのだと思う。しかしながら、今回再会できた友人・知人と会話し、この2年を埋め合わせ、そしてそれぞれのこの先を祈れることのなんと素晴らしいことだろう。研究をしに行った外国の街で(研究関連だけにとどまらず)多くの素晴らしい出会いに恵まれ、僕がもう街を離れてしまってから時間が経っても再び会うことができる。こういったことが僕の大きな支えになっている。


せっかくニューヨークに行ったので、当時足繁く通ったBook offとKinokuniyaに日本語の本を探しに行った。残念に思ったのは、どちらの書店でも日本語の本のコーナーが大幅に縮小され、その部分におもちゃやフィギュアといった商品が並べられていたことだった。恐らく、それらの需要が増していると共に日本語の本の読者が減っているのだろう。特にBook offに至ってはこの8年間の変遷を見てきて、寂しさを感じるペースで急激に日本語の本のスペースが縮小されている。僕が8年前に初めてマンハッタンのBook offに行ったときと比較して、日本語の本のコーナーは恐らく1/6~1/8程度のスペースになってしまったのではないか。これだけ小さくなってしまうと、全部の棚を隈なく見回して掘り出し物を探すというような楽しみが減ってしまう。

それでも今回の戦利品はジッドの『狭き門』とカフカの『城』である。『狭き門』を読み始めたのだが、そのタイトルページには聖書のルカ伝からの引用として、

「力を尽くして狭き門より入れ」

とある。これはまさに研究や研究キャリアに通じる言葉だと、驚く発見をした。


ジョージ・オーウェル『一杯のおいしい紅茶』(小野寺健 編訳)というジョージ・オーウェルのエッセイ集を読み終えた。これは先日日本に一時帰国した際に妻が購入した本だった。オーウェルと言えば『1984』や『動物農場』といった政治風刺色の強い物語を書いたイギリスの作家である。これら二つの小説は読みやすい上に非常に面白いのでお勧めしたい。

オーウェルはとても数奇な人生を送った作家だった。彼はイギリスの名門校イートンで学んだ後、当時イギリスの植民地だったビルマに帝国警察として赴任したのだが、イギリス帝国主義に嫌気が差して帰国し作家となった。作家になった直後は極貧生活を経験しスラム街でしばらく暮らしたこともある。その後スペイン戦争の前線に参加し喉を銃弾が貫通するという経験もしている。その後、作家として成功したのだが、結核を病み比較的若くして亡くなった。

このエッセイ集を読んでいると、オーウェルという人は人として誠実で信頼のできる人間なのだという感じがしてくる。政治や世界の有り様に対して厳しく批判をしているものの、彼の感覚はとても庶民的であり、保守的ですらある。自然やイギリスの伝統的な料理・文化を愛し、普通の人が経験する人生の喜怒哀楽を書いていてとても好感が持てる。

この翻訳本の最後に収められているオーウェルのエッセイ『なぜ書くか』の原本『Why I Write』は以下から無料で読むことができる。とても興味深い上に彼の人柄がわかる気がするのでお勧めしたい。

Why I Write (The Orwell Foundation)


今年も一人の日本人学生の海外大学院出願のお手伝いをしている。毎年思うが、海外の大学院に進学したいと考える日本人学生にとって決定的に足りないものが二つある。この二つがあればもっと多くの日本人学生(そしてポスドクにも当てはまる)が海外に飛び出し学ぶことで、ゆくゆくは日本がより豊かになると思う。その二つとは「情報」と「励まし」だと考えている。

財団インタビュー

日曜日の早朝にロンドンに到着し、水曜日の早朝に某財団でフェローシップのインタビューを受けてきた。そして、水曜日はそのまま半日ロンドンで過ごした後再びアメリカに戻ってきた。タフな一週間だったものの、良い経験をしたのではないかと思う。結果的にこれまでで一番準備をして臨んだインタビューになった。

今回のフェローシップ出願は書類の作成にしろ面接の準備にしろボスが非常に力を入れて面倒を見てくれた。その分総合して非常に強度の高い激しい準備期間となった。面接準備に関しては、僕の所属する研究所の教員数人を招き模擬インタビューをすることを強く勧められ、そのアドバイスに従うことにした。ボスから誰に声をかけることという指示もあった。普段特に話したこともない別のラボの教員数人にメールを送り、模擬インタビューに来て頂いて批評を頂くことは、僕の性格上非常に辛い練習だった。インタビューでは顔も知らない人たちと会話する。ほとんどの場合一回きりの出会いであり、どんなにヘマをしても忘れてしまうことができる。しかし、同じ研究所内の教員ともなると、日常的に顔を合わせる間柄なので、あまりみっともない姿を晒したくはない。結果的に、模擬インタビューは効果的だった。まず、僕がまだ準備を終えていないことが自分自身にとってはっきりしたし、模擬インタビューに来てくださった教員の方々は経験豊富で、彼ら彼女らの質問は本質的で役に立った。また、あまりに模擬インタビューで緊張し恐怖感を感じたので、本番が模擬に比べて優しく感じるほどだった。

今回のインタビューは10分のプレゼンテーションと20分の質疑応答から構成されており、僕にとっての難関は最初の10分のプレゼンテーションだった。申請書類にはaimを三つ用意していたので、背景の説明に加えて三つのaimに関してわずかながらのプレリミナリデータと書類出願時からの進捗を加えるとあっという間に10分に到達してしまう。スライドは10日前に財団側に共有しておかなければならず、それ以降変更することができない。スライド作成時はボスにチェックしてもらったものの、通常の自分のプレゼンテーションよりも情報量を詰め込む結果になったので、そうすると話す方に大きなプレッシャーがかかる。10分間分のスクリプトをほとんど丸暗記して、滞らずに話さなければ10分に収まらない。一回でも英語を飛ばすことができないというのはノンネイティブスピーカーの僕にとってかなり大きなプレッシャーで、本格的に練習を始めて何人とも模擬インタビューをしながらも、心の中ではかなり苦しい数日を過ごすことになった。

本番もとても面白い体験ではあった。財団に赴き、会議室に通されると、馬蹄型に並べられた机に10人以上の面接官が着席している。僕にも中央に小さなテーブルが用意され、スライドが予めダウンロードしてあるコンピュータが備え付けられている。正面がチェアの面接官で、彼女の指示でまず10分のプレゼンテーションを行い、その後20分の質疑応答となる。質疑応答は予めレビューの内容を吟味してきた主に二人の面接官によって進められ、その後全体からも質問を募るという形だった。雰囲気は全体にサポーティブで圧迫するという感じではなく、30分なんとか穏やかにちゃんと会話することができたのではないかと思う。

結果はしばらくして明らかになるだろうが、準備としては自分のやれることは文字通り全てやったはずだ。そのため、後悔はなく、清々しい気持ちだ。心情的に苦しく不愉快ではあるがやっておいた方が良いという準備に関しても、今回は一切逃げなかった。5月に書類を作成していた際の苦労を無駄にしたくはないという気持ちと、アメリカから一時帰国してまで臨む面接という状況が、僕をけしかけてくれたのではないかとも思う。こういうことに関してチャンスを与えられたとき、自分が尻込みしてしまってはもう二度と同価値のチャンスは巡ってこないのではないかと思う。例えば、ボスが僕に模擬インタビューを勧めたとき、僕が恐怖感からそれをうやむやにしてしまっていたら、この先ボスが同様のチャンスに対して同じようにサポートしてくれることはないだろう。こういった状況で自分にできることといえば、自分で自分の可能性を潰してしまうことが嫌ならば、あとはもう全霊でしがみついていくしかないのだ。そして自分の及ばないものが勝手に裁定を下してくれるだろう。

インタビューやこれまでの色々に関して思い出そうとしてもいまいち細部までを思い出すことができない。そんな曖昧な印象から、僕が自分で自分をコントロールしようとしてる試みは全くの無意味であり、ただ何か大きなジェットコースターに乗せられてA地点からB地点まで運ばれているのか、何かVRの中にでもいるのではないかとの錯覚を起こす。


せっかくアメリカに長期出張に来ているので、次の週末はニューヨークに以前の同僚と友人を訪ねる。ニューヨークを離れて既に2年が経過していることに驚く。

アメリカ合宿期間中イギリス一時帰国

現在は6週間のアメリカ研究合宿中なのだが、4日間だけイギリスに帰国している。現在某財団のポスドクフェローシップに応募しておりインタビューに呼んでもらったので、ロンドンで行われるインタビューに出席するために帰国したのだ。体力的にかなりしんどいのだが、仕方ない。ブライトサイドといえば、2週間ぶりに妻に会うことができたことだ。

ありがたいことに同時期に応募していた日本のポスドクフェローシップには採択が内定したので、今回のイギリスフェローシップへのプレッシャーは和らいでいる。しかしながら、イギリスフェローシップの方が期間も長く研究費も援助されるので、僕にとってもラボにとっても助かるということで、これにも力を抜くという選択肢はない。

10月と同時に始まった、Jから始まるアメリカの研究機関での合宿はこれまでに工程の1/3以上が終了。しかしここまでの成果としては一つだけ実験を終えたに過ぎない。この2週間といえば駆けずり回るように忙しかった。現地に到着したものの、期待していたよりもずっと準備がなされておらず、文字通り空の部屋を与えられて、そこからBSL2感染実験が行えるように準備をするまでに随分と時間がかかった。自分にとっては新しい研究機関であるし、その機関にとって今回新しい実験系を僕らが持ち込むということで、毎日のように何かしらのトレーニングやミーティングが立て続けに組まれ、多くの折衝をせねばならず、その合間をみるように実験の準備をしたのだった。1週間だけラボの同僚が来ていたので、彼女の滞在期間中になんとかまともに実験が始められる状態にすることができた。

インタビューを終えてイギリスからアメリカに戻ったら、そこからようやく多くの実験ができるのではと期待している。また、相手に対してこちらの実験系を持ち込む、相手の大学院生をその感染実験ができるまでにはトレーニングを終えたので、僕の役割の幾つかは既に終えたのではないかと思う。

新しい研究機関に出張し、新しい人たちと実際に研究プロジェクトを行なってみると、日常的に本当に多くの発見がある。特に今回は分野の融合を狙ったようなものなので、相手の領域の常識を知ったり、実験のうちのどんなことに気を使うか知るだけでも毎日勉強になる。僕らの実験系とは気を使う場所が異なっており、それらを知るだけでも単純に楽しい。そして、才能のある同世代と知り合うことはやはりこの上ない刺激となる。世界の最先端の研究機関では今このような方向性の研究が盛り上がってきている、ということを肌で感じることができるのは刺激的なことだ。そういう意味で、6週間もイギリスでの自分自身の研究を止めて、イギリスアメリカ間をインタビューのために往復し、(ほぼ相手のために)研究材料を持ち込むための大量の雑用をこなしているのにもまあ意味があるのではないかと思う。とにかく与えられた役割に対して、その都度一所懸命に働くこと以外できることは無いし、それが自分を活かす方法なのではと考えている。この研究機関についてはあまり多くを書くことはできないが、不思議な環境である。好きな人には楽園のような場所かと思うが、苦手な人も多いのではないだろうか。僕は6週間ならば楽しく生活できそうだが、ここに妻と移住するのはあまり考えられないのではと思う。