NINJ1はピロトーシスの過程で多量体化することで細胞膜に穴を開け、炎症を促進する

今週面白かった論文はNatureにback-to-backで掲載された以下の二報。

Structural basis of NINJ1-mediated plasma membrane rupture in cell death (Degan et al., Nature, May 2023)

Inhibiting membrane rupture with NINJ1 antibodies limits tissue injury (Kayagaki et al., Nature, May 2023)

どちらもピロトーシスの過程でNINJ1が多量体化することで細胞膜に巨大な穴を開けることを示している。一報目はそれに加えて、多量体化のメカニズムについて構造生物学的なアプローチを行い、NINJ1の単量体がどのように多量体化し、細胞膜に穴をあけるのかを解き明かしている。二報目は、(マウス)NINJ1の多量体化を阻害するフラグメント抗原結合領域を同定し、それを用いることで、マウス肝炎モデルにおいて、NINJ1の多量体化を阻害すると放出されるダメージ関連分子パターン(Damage-associated molecular patterns: DAMPs)の量が減り炎症が軽減されることを示している。

プログラム細胞死の世界は非常に複雑で、この分野について僕は素人同然である。ピロトーシス(もしくはパイロトーシス: pyroptosis)とは、アポトーシスやネクローシスとも異なるプログラム細胞死であり、”pyro”が示すように燃える細胞死: 自然免疫系の細胞が死ぬことで炎症を促進するような細胞死の形態である。二種類の経路が知られているらしい。一つ目は、病原体関連分子パターン(Pathogen-associated molecular patterns: PAMPs)やDAMPsの存在下でインフラソームが形成され、Caspase-1が活性化する。Caspase-1がDAMPであるIL-18やIL-1bを切断し活性化させると同時にGasdermin Dも切断する。切断されたGasdermin Dは多量体化し細胞膜に小さな穴を開ける。二つ目は、宿主がグラム陰性細菌(LPSによる刺激)に感染しCaspase-4/5/11が活性化することでGasdermin Dが切断される。以下は同じである。今回の論文の主題であるNINJ1はGasdermin Dの下流に位置するタンパク質で、Gasdermin Dが小さな穴しか開けられないのに対して、NINJ1が多量体化すると巨大な穴が細胞膜上に形成されかなり大きなDAMP分子まで細胞外に放出される。


博士学生の頃の僕はまず上記の論文に目を通していなかっただろうという意味で、新しい環境に飛び込んでみた価値はあったのだろうと思う。

現在のラボにほぼ同じタイミングで入ったポスドクがいて、彼女とは定期的に進捗報告会を設けている。目標や目指すところも大体同じだし、プロジェクトは被っていないし、二人とも小さな面倒見の良いラボで博士課程を終えてから放任のラボでポスドクになったということもあり、なんとか情報を共有しお互い支え合ってこのポスドク期間をサバイブしていこう、という魂胆である。彼女と僕は良い意味で性格が異なっているということもある。彼女は二児の母をしながら研究キャリアを追求しているスーパーウーマンということもあり、強い。時間の制約があるなかで結果を残さなければならないという状況から、物事を非常に効率化している。その過程で、必要なものには遠慮しないし、切り捨てるものは切り捨てる。一方、僕のほうはまだ妻との二人暮らしということで、やろうと思えば平日の夜や土日もラボに行くことができるため、ついつい余計なことに手を出してしまったり、興味本位に風呂敷を広げてしまったりする。また、そういう使いやすい僕に対して、ボスから色々と雑用まがいの仕事が降ってきたりもする。さらに、僕は博士課程のラボで仕込まれた研究の進め方を未だ引きずっていて、それは今のラボからすると遅い非効率な方法だったりする(結果的にどちらの効率が良いのかはわからない、と僕は考えているのだけれど)。彼女とのミーティングの度に僕が彼女から忠告を受けるのが、もっと自分勝手に自分の成功のために振る舞わなければだめだ、ということだ。もっとラボの資源を遠慮せずじゃぶじゃぶ使って、最短経路を走らなければならない、と言われてしまう。勝たなければ、生き残らなければ、次はないのだ、将来的に何か面白いことを考えていたとしても、まずは今勝たなければ将来のことを考えても仕方がないのだ、と諭される。その度に、うーん、そうだよな、と思う。僕には戦闘意欲が足りていないのではないか。自分でも、競争的な環境で成功者になれるようなマインドセットを持ち合わせているとはなかなか思えない。しかし、そんな自分でも貢献できることはあるのではないかと模索するような感じである。

1665年ケンブリッジのペスト

『The Great Plague: When Death Came to Cambridge in 1665』(Evelyn Lord著)を読み終えた。この本は、1665-1666年イギリスを襲ったペスト(Plague)の災厄をローカルな視点で分析するという試みで、舞台は学園都市ケンブリッジである。この1665-1666年には万有引力や微積分の発見で有名なアイザック・ニュートンもケンブリッジの学生であり、このペストのパンデミックから逃れるためにケンブリッジを離れ近隣の村に避難していた。

しかし、酷い出来の本なので、この本は読む価値がない。ペストとそのパンデミック下で暮らした人々のことを知りたくて手に取ったものの、あまりに関係ない些末なことが延々とダラダラ脈絡なく書かれていて苦痛で仕方がなかった。ただただ記録をもとに犠牲者を列挙し、そこに17世紀トリビアを混ぜてかさ増ししたような代物である。さらに絶句そして決定的に失望したのは、著者が最後の章でペストがなぜ退いたのかという説をいくつか挙げた際に、ペストを「ウイルス」と書いていたことである。このブログの読者の皆様はご存知の通り、ペストはペスト菌(Yersinia pestis)の感染によって生じる感染症である。時間を無駄にしてしまった気分だ。がっかり。

感染症学の坂の上の雲

『北里柴三郎 雷(ドンネル)と呼ばれた男(上・下)』(山崎光夫著、中公文庫)を読み終えた。

北里柴三郎は日本を代表する感染症学の専門家で、北里大学の大学名や新千円札の肖像などからも比較的日本人に広く知られた科学者/医学者だろう。北里柴三郎は1853年に熊本県阿蘇(当時は肥後国の小国)に生まれた。熊本に設置されていた肥後藩立の西洋医学所にて医学のトレーニングを受けた。その後、上京し、東京医学校(現東大医学部)でさらに医学を学び免許を取得。その後、ドイツのベルリン大学へ留学し、細菌学の祖ロバート・コッホに師事し当時最先端の細菌学を極めた。この時、破傷風菌の純粋培養法の確立と、世界で初めて血清療法を開発し破傷風に対して血清療法を確立。帰国後、福沢諭吉からの援助を受け、私立伝染病研究所を設立、所長となる(後にこの研究所は国立となる)。香港にペストが大流行した際は、国の調査団として香港に出張、ペスト菌を発見した。国立伝染病研究所が東大に移管される際に反発し辞職、私立北里研究所を設立。さらに、慶應義塾大学の医学部を設立。また帰国後は生涯を通して何人もの優れた弟子を育成し、日本の医学・細菌学・感染症学の発展にとてつもない貢献をした。1931年に亡くなっている。

上でざっと北里柴三郎の略歴をまとめてみたが、とんでもない偉人である。上巻で立志からドイツ留学の終わりまでを描き、下巻で帰国後から死去するまでを描く。この時代に生きた人たちの熱さと志の高さには本当に頭が下がる。明治維新を終えたばかりの日本にあって、こういった人たちが必死に西欧から学び日本の科学技術レベルを押し上げたのだ。

北里柴三郎がこれだけの偉業を成し遂げたのは、彼が多くの素晴らしい出会いに恵まれたことが大きいだろう。本書にはいくつか感動的な例が描かれている。まずは、西洋医学所でのマンスフェルトとの出会いである。マンスフェルトはオランダの海軍軍医で、当時日本に招聘されて医学を教えていた。彼は規律に厳しいがとても熱心で温かく大きな心を持った医者/教師だったようだ。あの時代にオランダから日本へ来て若い日本人へ向けて医学の講義をする人間の器が大きくないわけがない。北里柴三郎は彼の薫陶を受けて医学の道を志した。北里柴三郎はマンスフェルトからドイツ語も習い、その語学の力が後にドイツ留学の際に大きな役割を果たす。北里はのちにヨーロッパで恩師マンスフェルトと再会している。このシーンは感動的である。次に、ドイツでコッホに師事したことである。ロバート・コッホはまさに細菌学を作った研究者/医者であり、病気が細菌感染によって生じることを初めて証明したこの道の神様のような存在だった。北里柴三郎は単身そこに飛び込み、コッホから絶大な信頼を得て、6年の留学期間中に素晴らしい研究成果を残した。北里は帰国後もコッホのことを尊敬し続け、コッホを自らの指針とした。またコッホが後に来日した際、北里は手厚くもてなしている。次に、北里と福沢諭吉の出会いである。北里は帰国後、なかなか研究の場を与えられず腐っていた。そこで手を貸し、その後ずっとパトロンとして北里を支え続けたのが福沢諭吉だった。福沢が動き、私立伝染病研究所が作られたことで、北里はようやくドイツでつけた力を日本で発揮することができた。福沢は信頼する側近の男を北里に送り、彼に北里の財務や事務を支えさせた。これが北里をとても助ける結果となった。北里は福沢に大きな恩を感じ、福沢死去のあと、慶應義塾大学医学部の創立に尽力した。そして最後に、北里と彼の研究所の研究員たちとの絆である。北里が所長を務めた研究所の研究員は才能のあるスター揃いだった。例えば、赤痢菌を発見した志賀潔(赤痢菌Shigellaの名前は志賀から付けられている)などが含まれていた。北里が東大や政府と揉めて、国立伝染病研究所が東大に移管になった際、北里に続く形で多くの研究員も同時に辞職し、北里研究所の立ち上げに尽力した。本を読んでいる感じでは、北里柴三郎は一本気で情にもろいところもある男だったようで、その性格が人を引き寄せたのかもしれない。

北里柴三郎がドイツで破傷風菌の研究をしている様子や、志賀潔が赤痢菌の研究をしている様子は、同じ研究者として興味深く、また刺激を受けると同時に、とても敵わないと思う。彼らはまさに命がけ(抗生物質のなかった時代に致死性の感染症を研究するのは文字通り命がけである)、人生全て投げ込んで研究をしていて、僕にはとても真似できない。

北里柴三郎の一つの大きな命題は感染症学を通して日本という国家に貢献するというものだった。実際に、コッホの研究室での仕事が大きく評価された後、北里にはアメリカやイギリスの有名大学から破格のポジションオファーがいくつもあったようだ。しかし、北里はこれらを全て断り、帰国した。そして、日本の感染症学をその後に支え発展させることになる何人もの弟子を育て、また研究所や大学医学部まで自らで作り、日本の医学研究に大きな足跡を残した。明治維新前後の偉人によく見られるこの強い愛国心、そしてそれをエネルギーに変えてなし得る大きな仕事は素直に尊敬せざるを得ない。

次回帰国した際に北里柴三郎記念館を訪ねてみたい。


最近提出したフェローシップのアプリケーションにケアレスミスを見つけてしまい、しばらく自分の阿呆さ加減に愕然としてしまった。どんなに実際の内容が良く書かれていても、下手したら一発アウトな内容のミスを犯してしまったので、もはや後の祭り、どうしようもない。そういうこともある、教訓を学んだということだろう。


今年の秋、アメリカのとある研究施設に一月半ほど出張することになりそうだ。これはその研究施設の持つプログラムで、いくつかの異なる専門性を持つラボから数人ずつその研究施設に集め、一月超を缶詰にすることで、何か新しい研究プログラムを作ろうというコラボレーションプロジェクトである。その研究施設にラボを持つPIが僕のボスに声をかけたところから話がスタートした。

そういった経緯で声がかかったので、当然僕が現在自分で進めているプロジェクトとは全く異なる内容である。当初、僕の所属するラボからは二人ポスドクを派遣することが希望されたのだが、ボスがラボを見回した結果現在派遣できるのは僕だけ(なぜなのか!)という結論になり、僕のラボからは僕だけが出張することになる。現在自分の進めているプロジェクトとは趣が大きく異なるので、そのプロジェクトのことを考えれば物理的に一月半以上もラボを離れ、さらにもろもろの面倒臭い仕事も降ってきて集中が乱されるので、困った事象ではある。しかし、その研究施設には一度訪れてみたいと思っていたし、このコラボレーションをもとに新しい人脈が作れるかもしれないし、このプロジェクトを考える上で勉強する新しい内容は興味深いし、万が一にもこのコラボレーションをもとに成果が出る可能性もないわけではない。これらを総合すると、まあ関わってみてもいいか、という感じである。

そのコラボレーションプロジェクトに必要な実験試料をその研究施設に揃えるために、様々な事務作業などをこなさなければならずしばらく面倒な仕事が多かったのだが、今週ひと段落した。これからビザ申請である。またあの面倒なアメリカビザを申請するのかと思うと憂鬱だが、仕方ない。

しかし、よくよく考えてみると、これはコラボレーションの相手にとってとても魅力的な話だろうと思う。このコラボレーションをするために、試料もその研究施設に集まるし、技術は僕なんかが持ってきて一月以上使って現地の大学院生に伝授するわけで、自分たちはその場に滞在しつつ、研究施設に一挙にプロジェクトを進めるだけのリソースが揃うのである。このコラボレーションをドライブしているPIの一人は最近独立したばかりの若手なので、この機会を使って人脈やリソースを確保したいという狙いがあるのだろう。そういった「動き方」も参考になる。


先週はフェローシップの執筆で朝から晩まで毎日ひたすらパソコンの前で過ごした。そして先週末、妻と一緒に呼ばれたバーベキューパーティーの席で、少年にせがまれてラグビー(ここはイギリス!)をしたのだが、この凝り固まった身体を突如激しく動かしたせいか、ギックリ腰未遂を起こしてしまった。僕は以前にも一度、コロナ禍でアパートにロックダウンされているときにギックリ腰を起こした過去がある。

月曜日はあまりの痛さにロクに仕事にならず午後の早い時間に帰宅することになった。その後、日を追うごとに回復してきて、今日金曜日はもうほとんど通常の生活に戻っている。ということで、今週はマイクロマニピュレータを使ったインジェクションの実験は、椅子には座らず立ちっぱなしで行うことにした。顕微鏡の高ささえ合わせてしまえば、立った状態でインジェクションするのも全然問題ないどころか、寧ろ椅子に座ったり降りたりする動作を省くことができて便利なのではないかという発見が怪我の功名である。

挑戦の一週間

先週末にブログを更新できなかったのはあまりに忙しかったからだった。

昨日金曜日のうちにようやく一段落して、今週末はまた元の生活に戻れるのではないかと思う。そう、グラントの申請書が書き終わったのだ。

今回出願したのはイギリスの医学・生命科学系としては最も権威があり大きな財団の持つ初期研究キャリア(要はポスドク)向けのグラント/フェローシップだった。獲得することができれば先5年間の給料と研究費、さらにテクニシャンを一人雇うだけの補助がでるということで、僕のレベルの研究者にとっては破格の待遇である。それだけに非常に競争率が高く、スポンサーになってくれるボスの要求もそれだけ高くなる。

初稿は随分前に出来上がっていた。別のフェローシップ申請に使ったアイデアを再利用する形で書き、ボスに送っておいた。ボスもその当時は、まあそのアイデアで良いのでは?という軽い感じだった。しかしボスも異常に忙しい人なので、ボスが初稿に目を通してくれたのがおよそ10日前ほどで、そこから昨日まではストレスと戦いながら頭と身体を酷使する日々だった。

まず初稿とそのアイデアは完全にボツになってしまった。これでは全く競争力が弱いということで、それからアイデアを絞り出し、自分の今までの(粗末な)プレリミナリデータと対面し、ストーリーを練り直し、二稿、三稿と稿が重なる。三稿目で概ねのストーリーラインとそれに伴い提案する仮説とそれを検証するための実験の形に関して、ボスと合意が取れ、申請書の文章に直していく。そこからはボスが時間を作ってくれては、ボスのオフィスに行き、一緒にコンピュータを見ながら隙のない一文一文を作っていく作業だった。それが夕方から始まれば、夜までボスのオフィスに詰めて、「これこれを直した方が良い」と言われれば、そのあと家に帰ってからそこを直して朝までにボスに送り、という作業を繰り返すという感じで、先週は毎晩日付がかわるまでぶっ続けで申請書と向き合った。ボスと研究計画書についての作業をしていないタイミングに時間があったかというと全くそんなこともなく、引用文献の整理、図表の作成、動物実験に関するあれこれの書類作成、研究費申請に関する調整ととにかく目まぐるしく作業があり、その中には研究計画がかわると必然的に変更を強いられるものも多く、気の抜けない作業だった。今回不運だったのは、ラボの秘書さんが数ヶ月前に辞職してしまい、僕と大学側の間で調整を手伝ってくれる人がおらず、方々に連絡をとっては必要な情報と手助けをお願いしなければならなかったことだ(そのおかげで、少しシステムに詳しくなった)。ボスは異常に忙しい人で、財団の指定する最終締め切りよりもだいぶ前に設定されている学内の申請締め切りは最初から踏み倒すつもりの時間調整だったので、僕は内心本当にヒヤヒヤする日々だった。学内には遅延申請システムという、何らかの理由で学内申請締め切りに間に合わなかったグラント申請書を例外的に緊急で申請承認するシステムがあり、最初からその遅延申請システムの締切りにギリギリで間に合わせるという魂胆だった。その遅延申請システムを利用するには学部財務の許可をとらなければならず、そこから僕に対して催促のメールが入って来、それをかわしながら作業を続けることになった(財務の皆様すみませんでした)。

ボスは研究に関して、データを解釈してストーリーを作ったり、過去の研究の積み重ねから何が面白く重要な問いかを嗅ぎ分けたりすることに関して、異論なく大天才である。それはもう僕と比べてしまえば、a whole nother levelで、僕はこのラボから出版されるそういった論文を読んでこのラボに来たという経緯がある。今回はそんなボスにかなりの時間を割いてもらって、グラント申請という作業を通して、ボスの頭の中を少し垣間見ることができたという非常に貴重なトレーニングの機会を得た。しかし代償もあった。まず、自分のちっぽけな自信はこれでもかと粉々に打ち砕かれ、この一週間ほど僕は自分の無力さに打ちひしがれることになった。そして、連日朝から深夜までストレスを抱えながら申請書を書いていたせいか、(おそらくストレス性の逆流性食道炎による)胸の痛みが再発し、この数日ボスのオフィスのドアが開く音で動悸がする状態になってしまった。しかしPhDの時もこのようなことはあり一過性だと考えられるので、数日休めばまた元に戻るだろう。また、今週は全く他のことに手を回すことができず、妻にも迷惑をかけた。

最後にボスからは、「よくこの機会を見つけて書くことにした」と声をかけられた。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、ポスドク期間が修行期間であるならば、僕は正統に苦労したのだろう。金曜日に財団のページから申請書を提出し、学部にそのことを伝えた。学部の財務が来週の頭に申請書をざっとチェックしたのち、大学のグラントオフィスに遅延申請を働きかけてくれるはずだ。財団の最終締め切りまで残り数日、大学を通した申請が完了しないと気が抜けないことに変わりはないのだが、概ね僕の手を離れたと言えるだろう。

はやくまたベンチに戻りたい。僕は最近しきりに自分が性格的にエリート科学の世界に向いていないのではないかと思う。